面倒なコミュニケーションから解放された
久しぶりに心が軽やかになった。職場の関係で月次で休日に打合せをしなくてはいけなかったのだが、それが今月で終わった。内容は重いものではないし、長時間というわけではないのだが、ふとしたときに頭に浮かんでくるのが嫌だったのと、構成メンバーの中に、いちいち蘊蓄のようなコメントや指摘を思いつくままに発言するタイプの評論家のようなおじさんがいたというのが特に憂鬱だった。今年は新型コロナウイルスの関係で例年と同様に対応できないことがいくつかあった。このため自分の担当分野に関しても、状況に応じて対応方針を考えて説明する必要があったのだが、対応方針に関して(ほぼ満場一致しているにもかかわらず)、いろいろと話しを広げてくるので、いちいち説明したり反論したりしないといけないのが鬱陶しく感じた(自分だけではなく、他の人の発言に対しても同様)。もちろん、論点に即した建設的な提案だったり、重大な問題点の指摘であれば、歓迎すべきことだし、そのために議論をしているのだと思っているが…。
そういえば、かつての上司にもこういうタイプの「評論家おじさん」がいて苦手に感じていた。ある事柄について相談すると、その事柄に関する自分の経験だったり知識をひけらかしてくるのだが、その内容は論点と直接は関係しないことだったり、理論的には想定されるけど実態を考えると無視しても良いレベルの話だったりする。関連はしているが解決策でもないし重要な問題点の指摘というわけでもないため、話がまとまらなくなって扱いに困るし、一緒に仕事をしているのに「ご意見番」のような第三者的な意識にも腹が立った(そのことに起因しているのかは分からないが、その上司は社内でも特に評価はされていない)。
評論家おじさんの発言全てが無益だとは思わないが、仕事を利用して自分の知識や経験を誇示したいという承認欲求のような意図が透けて見えるのが癪に障るのと、本論と関係のない話をされることで余計なコミュニケーションコストを支払わなければいけないという点が生理的に受け付けないのかも知れない。後者に関しては、「ああ言えばこういう」といった弁が立つ人であれば、うまく切り返せる(そもそもが的を得た発言ではないため)のだと思うが、残念ながら自分は脳の回転が遅いし、コミュニケーションが苦手(特に大勢の注目を浴びると頭が真っ白になるときもある)なので、いきなり明後日の方向から指摘やコメントをされると、慌ててしまって的外れな発言をしていまったり、答えに窮してしまうことがある。最終的には軌道修正されるので何か問題が生じるわけでもないのだけど、自分としては30歳を過ぎてあたふたするのもみっともないと思うし恥をかかされた気がして精神的に引きずってしまう。そのため、毎回議論を入念に事前シミュレーションして臨まなければならなかった。こうして書くと自分に起因する問題でもあるとは思うが、なんにせよ余計なストレスは抱えたくないので、ストレス源が1つ無くなってほっとしている。